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2009年9月 アーカイブ

2009年9月 1日

バウハウスの歴史

わずかな期間にもかかわらず、運営活動の変動の頻度が高い。

1918年にドイツ帝国が崩壊し大公の統治が終わりヴァイマル共和国が成立。1919年、工芸学校と美術学校が合併して「国立バウハウス・ヴァイマル」設立。初代校長にグロピウスが就任(当時は1911年にヴァン・デ・ヴェルデ設計で建てられた旧工芸学校の建物が校舎)。同年にバウハウス創立宣言が出された(ちなみに宣言の表紙はライオネル・ファイニンガーの「社会主義の大聖堂」)。

その後、ヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、「市立バウハウス・デッサウ」となった。デッサウでの校舎はグロピウスの設計によるもので、モダニズム建築として各国に紹介された。グロピウスは1928年に校長を退き、グロピウスの後継者にはハンネス・マイヤーが指名された。

1930年にマイヤーは解任、ミース・ファン・デル・ローエが校長に就任。1932年にデッサウ校は閉鎖しベルリンへ移転し私立学校に。ローエの方針はマイヤーの「バウエン」を継承しつつも、政治色を払拭するものだった。しかし1933年にはナチスにより閉校にされた。ミースらはアメリカに亡命・移住し、バウハウスの運動を伝えた。(アメリカでの「ニュー・バウハウス」)

初期には、予備課程を担当していたヨハネス・イッテン(Johannes Itten; 1888年-1967年)の考え方から、教育内容は合理主義的(機能主義的)なもの、表現主義的(神秘主義・精神主義的、芸術的、手工業的)なものとが混合され教えられていた。

その後グロピウスは、「ロシア構成主義」やテオ・ファン・ドースブルフによるデ・ステイル(De Stijl)の、より合理主義的・機能主義的な考え方の影響を受けた。そのこともあり、グロピウスとヨハネス・イッテンとの間に対立が生じ、イッテンがバウハウスを去り、後継者にモホリ=ナジ・ラースローが予備課程を担当した。その結果、合理主義・機能主義(工業デザインや大量生産に合致するような方向)が、バウハウスの中心的な教育傾向となっていった。

ムテジウスの系譜に連なるマイヤーは唯物論の立場から「バウエン」を唱え、全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させた。これにより「ドイツ表現主義」的な審美性は無くなり、造形の呼称は「美」に代わって「形成」(Gestaltung)とされた。マイヤーの手腕でバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、同校のデザイン活動は最高潮に達していた。1929年6月にマイヤーの後援でバウハウス内に「ドイツ共産党細胞」という同好会が結成された。マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、さらにバウハウスはナチスら右翼勢力に敵視されるようになる。

なお、モホリ=ナジ・ラースローは、亡命先のアメリカ・シカゴにニュー・バウハウスを設立している(1937年から1939年まで)。

「ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」は、1996年に世界遺産(文化遺産)に登録された。<バウハウス叢書>の刊行も含め、後世の美術芸術・美術思想・美術教育等に与えた影響は大きい。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
バウハウスは美術と建築に関する総合的な教育を行った学校です。

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